文
手遊び
私には苦手な男がいた。
鑑恭介という名で、頭が良く、責任感があり、正邪の区別をはっきりとつける、清廉さを形にしたような男で、能力だけを推し量れば十分信頼に足る人であったが、いささか融通が利かず、俗っぽい私達のようなアウトサイダーから見れば、なかなかどうして息が詰まる。とはいえ、波風をたてるほどの嫌悪感もなく、単なる級友であったことは確かだ。そういった苦手意識は生理的なものだが(というより自分の性質と相容れないゆえの防衛本能だろう)、強烈に意識したのは彼を知ったずっと後のことである。
もともとさほど仲が良いわけでもなく、私自身は彼の人となりには全くといっていいほど興味がなかった。
また彼はとても目立つ人であったから、ことさら私のように陰気で風采の上がらない男のことは気にもとめなかったであろう。だからこそ私はたいした意識も持たず、他の人と同じように彼と接していたし、どちらかというと堅物の彼からすれば、もしや目障りであったかもしれない。私ときたら授業が嫌いで素行が悪く、本ばかり読んでいた。いっぱしの文学青年を気取り、遠回りな感傷を楽しむのが常であったから、規律が好きで合理的な彼は全く天敵であったのだ。
私は彼を苦手としていたが、別段気にした風もなく振舞う。彼に嫌われていようが気にされていなかろうが、臆することなく彼をただの平凡な級友として扱うことが、最も私らしいポーズであった。それは彼に限ったことではなく、どんな人間も、奇しくも苦手な男すら歯牙にもかけない。嫌世的に擬せた冷めた態度は、当たり触りがなく緩やかに接する事で、区別をしないことこそ相応しい。
何者をも個別認識するほど意識を、とりわけ苦手などという健著な感傷を持つに値しないと、斜に構えた私は心掛けていた。
自分だけが特別であった私は、私にとって特別があってはならなかった。
ところが彼は大変美しい手をしていた。
体の割りに小さいが指はすらりと長く、その先にはほんのりと桜貝のような爪がのっている。綺麗に切りそろえられていて指先をきっちりとは覆っておらず、はみ出した肉でとんとんと机を叩くのが癖だった。まったく無意識の行動であるが私にはどうにも耐えがたい仕草で、咎め立てたい気持ちがじくじくと胸で腐る。それからつるりとした手の甲には青い血管が走り、少しだけ浮きあがった骨の線が付け根でぷっくりと山になる。反した掌に軋む細い皺が絡まり幾筋もの窪みをなぞりあげたい衝動に駆られたものだ。
しかしながらその、あまりにも爛れた妄想を飲み込める非常識さを生憎持ち合わせていなかった。
つまり私は呆れるほど凡人なのだが、その当たり前の事実に気がつかなかった。
否、気付かないようしていたといえる。
それこそ誰もが持っている自意識という平凡な誤解だろう。
私は奇妙な衝動に駆られる自分を恥じた。或いは認めなかった。
或時私は夢を見た。
彼の手が絡め取られる夢だ。
見知らぬ武骨な白い手が彼の手を捉えていた。
乱暴に彼の手首を掴み、振りほどこうともがくのをきつく絞って許さなかった。捻って逃れようとする手首の皮は引き攣れ、白くぴんと張った膜のような肌に赤く指の痕がつく。それから彼の手首の内の紫色をした血の筋を狙って、親指で堰きとめるように押し当てるとちょうど耐えるように握りこんだ指がほとほとと開き、二三度びくんびくんと痙攣した。
血が通わなくなった指先こそが最も魅力的で、まったくあの白さはどうだろう!
痺れと冷たさが喘ぐように震える指に相応しく、私はごくりと唾を飲み込んだ。
酷く興奮していた。
触れたことの無い彼の指先の冷たさを自分勝手に想像し、夢であるのにおそらく酔っていたと思う。
彼の緩く開いた掌に軽く指を曲がった指が起ち上がると、送られる血を堰きとめていた親指の腹をそっと中心に滑らした。解放されてほっと弛むのもつかの間、反らした手首から続く、二つの膨らみの間を撫で上げ中心をきつく押しとめると、慌てて、彼の指たちはしがみつく。すると怯える彼の手を、指を、宥める様に残りの指で外側を撫で、親指は彼の指の付け根を辿り、優しく彼を開かせてしまい、なるほどそのもう一つの手はとても狎れていたようだ。
ついには彼のすべての指の股の間に、その見知らぬ指はすっかりと自身を埋めてしまった。付け根同士をぴたりと合わせると、隙間無く張り合わせる彼の美しい掌ともうひとつの大きな掌に潰された空気が音を立てて鳴るのだ。
観念したように彼の指は、武骨な甲の骨の山をそっと押し包み、やがて必死に縋りつく。爪が先まで届かぬ指をきりきりと立てると、彼の小さな爪はますます桜色に染まり、やわらかそうなそれが埋まる指先はますます白く変色をする。
自らの指先を傷つけるさまに、あ、と思うとそれきり私は目が覚めた。
それ以来、私は彼の手が酷く恐ろしいものに思え、あの美しい手を極力見ないようにした。
幸い私は一度もあの手に触れぬまま彼とは別れ、二度と会っていない。
卒業後、大学で出会った女と八年暮らしたが上手くいかず、別れた一月後に今の妻と見合いをした。知らず、美しい手の女性を探していたのだろうか、妻の手は大変美しかったし、妻もそれを自慢にしていた。白く長い指は折れそうなほど細く、肌はつやつやと透き通るようでやわらかい。良く手入れされた爪は全くため息が出るほどだ。
一緒に暮らしていた女は全く気にならなかったが、妻の手はとても女の手で、私を抱くのに具合がいい。赤く色が塗られたきらきらと光る美しい妻の爪が、私の肩に首に傷をつける時が最も美しいと想像をした。残念ながら、それは見ることができないが、そのほうが良いことなのだ。幾筋もの赤い傷が私の背中を醜く抉るのだから。
妻は少し彼に似ていたが、妻の手は彼の手の美しさには遠く及ばなかった。
彼の手は縋りつく自分に疵をつくる手だ。
彼の手に疵をつくれる相手のために、彼の手はあったのだ。
決して抱く人を傷つけないよう、深く深く爪を切った業の深い手だ。
私は、あ、と気付いて目が覚めた。
もう五十年も前の話だ。