文
Fiction
恭介の唇が触れる前に目が覚めた。
霞がかった頭を緩く振り、額に手を当てる。
軽い頭痛と眩暈に襲われ、不快感がこみ上げる。
ロイは恭介の唇の感触を知らないし、寝起きが悪い。夢見が良くないのは、ここ最近毎日のように続く。
ストレスが溜まっているのだろうか。
心当たりは山程。
連日の雨でトレーニングもままならない。つまらないことでティファニーには拗ねられ、女友達と遊ぶにも面
倒くささが先に立つ。食欲もない苛立ちから眠りも浅く、いつになくロイの神経は過敏だ。
ささくれだった気持ちを持て余して、自覚があるのがまた辛い。
深く息をつく。
疲労感で鉛でも飲み込んだように胃が重く、手足は水を吸ったように鈍いのに、体は熱を持ったように疼いている。
気が昂ぶって再び横になっても、とても眠れたものではない。しかも寝苦しいのは当然でロイはずっと着の身着のままで寝ていた。
倦怠感から倒れこむようにベッドに沈みこんだせいで、シャツは当然皺になり、ジーンズのボタンをうたかたに外している。
戯れに肌蹴た裾から手を入れて脇腹を擦り、ため息をついた。
ゆるゆると手を動かし、目に浮かぶのは恭介の、声。
息を飲むようにきつくロイの名を呼ぶ。
引き攣ったままの、あれは、悲鳴。
振り返って睨む。鋭利な視線。しとどに濡れた瞳は涙ひとつ落とさない。
ロイはゆっくりと息を飲む。冷たい空気が唇をなぞり、表面が乾く。ぴりりと攣れる皮を舌で舐め、湿らせると珍しくその気になる。
つまり不自由のなかったロイは、随分久しぶりで要するに新鮮ですらあったかも知れない。
結局、恭介だけを思い浮かべる。
夢の続きをみるように目を閉じて、彼の輪郭をなぞらえる。
裸のかかと。
見え隠れするまあるいくるぶしを、勿体つけるようなズボンの裾。縫製が美しく、一定の間隔でまっすぐ伸びるミシン目。
布と布の境目の窪みに、爪を差し入れて撫で上げる。
丁度恭介の弱いラインを知らせるので余計おかしい。
足の付け根で指を止めると彼は溜まった息を吐く。潤んだ目でロイを見上げ、またその名を口にする。吐息ほど切なく響いたが、その眼光の鋭さが冴え冴えと染みるのだ。
頬の下が総毛立ち、ぶる、と震える。全身があらぬ期待に落ち着かない。
想像であるのに、恭介はいつもどおりで、ロイを誘うように拒む。
壁を背に、怯えを目に、嘘を口に。
手を伸ばすと決まって顔を背けた。肩を竦めてねじった首筋を惜しみなく晒す。
わざと、
かな?
ロイは無邪気に小首を傾げる。本当にこういうときの恭介はわからない。
本気で彼の腕から抜け出そうとするくせに、こうして容易く抱かれてしまうのだから。
すぐに背を向けるので、手を回すと丁度触れる腰骨の横を辿り、脇腹に指をすすめると決まって苦しげに顎をあげるので、剥き出しの喉を脅すように撫でる。こうして弱みを手にするのは楽しい。優位に立った気分だからだ。
それから肩越しに覗く胸元が最も見慣れているせいで、鎖骨のラインまで正確に思い出す。そこから横目で彼の顔を盗み見る。とりわけ斜め上で震える唇がなんとなくすき。
隆起する喉を辿り、なるべくゆっくりと思い出しながらロイは自分の唇を撫でた。
彼とは違う弾力を手持ち無沙汰に、押す。
例えば、恭介ならそれを合図のように、口を開く。
もちろん拒絶の言葉を吐くために。
そうやって驚くほど自然に彼の指を迎え入れる。甘噛み、舌で押して、咥えたりする。
器用だな、とロイは思った。
そんな風に恭介のひとつひとつくを思い出しながら、彼のする通り丸めた指に歯を立てる。弾かれた軟骨が、がりと小さく響き、肉と皮膚が擦れる音と痛みがやけにリアルだ。
こめかみが痺れ、飲みこんだ唾液が耳の奥で鳴る。ゆっくりとシーツに顔を埋めると、頬の冷たい感触がより熱を知らせる。なのに粟立つ肌も悪い気はしない。
また、恭介の声がする。耳元で吐息を絡めて幾度も名を呼ぶ。
相変わらず否定だけの物言いで、それから困ったように身を捩り、気侭なロイの手に縋って、または制するまでその行為を続けさせた。しかしロイが手を止めたのはそのせいではない。
その後が全くわからないからだ。
次の瞬間、はたと気づいた。呆然とした。
彼は男を抱いたことがない。
ましてや恭介なんて。
つまりロイは恭介を知らない。想像もできない。
したがってそこで終わりだ。
ロイは忌々しげに舌打ちをする。どうしようもなく、自分の想像力の乏しさが腹立たしい。知らないものは思い出せない。ロイは可笑しいほど空想力が劣っていたようだ。
一気に冷え込んだ口の中でshitと口汚くスラングで呟く。しかも最悪のタイミングで鳴り響く電話を、乱暴に取り上げる。
「ロイ?」
受話器を耳に当てると、本当に最低のタイミングで掛けてきたのは恭介だった。
うってかわった乾いた声で、いつもどおりのつまらない電話用自己紹介。耳元で言い終わる前に指先だけで持っていた受話器を壁に叩きつける。手首だけでほおり投げて、ロイはバスルームに向かった。
気持ちの割には火照った体を冷ますために、冷たいシャワーを浴びて上がると、同時に待っていたようにドアベルが鳴る。完璧なほどさっぱりとしてしまったロイは、まさか恭介が息堰きってやってくるとは思いもしなかった。
「っ…電話が……変…だったから…事故かと思って……」
乱れた呼吸で言い訳をする。玄関で立ちすくんだまま、かなり急いで来たのだろう、部屋着に上着をひっかけただけの無頓着な格好で恭介は肩で息をした。ジーンズ姿のロイは上に何も着ず、濡れた髪にタオルを当てていたくらいだから、その平穏さに恭介は怪訝な顔をする。おそらく、暴漢に狙われかねない状況に身をおくロイを心底慮ってのことだろうが、意外な早とちりや、友人を憂慮する親切心よりも、その身なりの愛らしさがロイには画期的だった。
別に相手がロイに限ったことではない。この律儀な男はおよそ友人に滅法甘く、世話焼きで、心配性なのだ。
けれど。
こんなときに、そんな風に来られては。
恭介独特の図ったようなタイミングに、ロイは笑いが止まらない。
腹を折ってうずくまり、堪えるのに必死だった。